ただの学生の日記

ただの日記です。思ったことや、考えたことを書いていきます。

就職してから気が付いた自分のしたいこと

私は以前こんな記事を書いた。

 

wynnwind.hatenablog.com

 

だが、実際に就職してこれだけでは足らないということが分かった。

 

面白いことに、本当に人によって関心は異なる。結局私は自分の関心を捨て、条件だけで就職先を決めてしまった。しっかりonとofを切り替えられる人ならともかく、残念ながら私は常にonな人間だ(昨日久しぶりに話した親友に言われた)。自分の興味と職業が一致していないと、絶望にかられるらしい。

 

私の興味は何か、根源的なところで言えば「人の幸福」が最も重要だ。つまり、どうすれば社会を営む人間がより幸福になれるかということだ。だからこそ私は経済学部を志した。経済政策による経済成長があれば、物質的な充実は増え、より社会はよくなり、人々は幸福になると思っていたのだ。その後、大学に入り、いかに精神的な部分が重要かということが分かった。だからこそ卒論は結婚に関するテーマにしたし、心理に関する本をたくさん読んだ。

 

だけども自分の興味をすべて捨て就職したが、なかなか興味は捨てられなかった。やっぱり貧困や格差、自由やメンタルに関する本を買って読んでしまうし、働いていて、とてもつまらない。自分が社会的に存在する意義がなく思えてしまう。

 

正直、今の会社を辞め、大学院に行きたい、そして格差や幸福度研究もしくは心理の勉強をしたい、しかし、それは現実的でないし、転職も厳しい。

 

もっとしっかり就職のときに考えていればよかったと本気で思う。

社会人になって思ったこと

久しぶりにブログを更新する。はてなが少し重くだいぶ離れていた。

 

社会人になって、2カ月たったが、絶望感がやばい。そして親のすごさを実感する。

 

東京で新社会人一人暮らしは思った以上にきつかった。同期は居ないようなものだし、仕方なく高校大学の同期と電話しまくりである。

 

研修の時はともかく、配属先はいい人ばかりなのは良かった。しかし、ITに私は適性がなさそう、プログラミングが全く理解できない。そして何より会社で長期的なスパンが全く見えてこない。いやはや、条件等を考慮して決めたのだけど、ちょっとミスったかもしれない。会社自体は悪くないのだが、この若いときをここで過ごしてしまっていいのだろうか。

 

前の彼女に結婚適齢期位にあってたら良かったねとか言われたが、まさにそれに近い。もう少し若さと希望を失った後に入るような会社のような気がしてきた。

 

実際中途の人はたくさん居て、緩くていいよ、と言っているし。

 

だが自分の人生と生まれてきた意味が全く見えず、今後の人生の希望が皆無にだ。奨学金を返す前までは働くとは決めているが、守るものも、育てるものも、使命も無く、私は何を頼りにこれから生きていけばよいのか。

 

人生がつまらない。

最近思う色々なこと

ここ最近無駄に色々なことを考える。私生活は上手くいっているものの、少しずつ社会人生活のスタートが近づき、これから如何しようか。

大学4年間で理解できたものは大きい、それは苦痛や反面教師達から得られたことだ。簡単にまとめれば自分が本当にしたいことをやろう、嫌なことはどうせ続かない、そして規範や空気で人を縛り付ければ彼ら(自分がしたいことができない者)は生きないという選択をする(死にはしない、心を殺す)。

学生ならば卒論や授業などを最低限行い、好き勝手にやればいいのだが、問題はこれからだ。仕事が好きになればいいのだが、そう上手くいくか?、そして、自分がしたいことは何なのだ?

私はこれからを生きる上で、自分を殺したくはない、だが社会人になったら、生活が全て自分の責任になる、そんな余裕は出来るのか?

いくら悩んでもなにも起きない、どうしようもない。実際に歩み体験しなければわからない、だがただひたすら想像だけをしてしまう。

私は決して意識の高い学生ではない、でも実家の農地を用いて何かしたり、もしくは婚姻率に少しでも貢献できる何かをしたい、とかそんなことを思い始めている。

もちろん、これからを切り開くには最低限IT技術が必要だとは思っている、大概の場合それによって刷新が行われるだろう、そういう意味でもまず新卒で内定先で働くことは正しいと思っている。

にしても、こんなことを思うようになるなんて思いもしなかった。

湯シャンについて

ここ1年ほど非常に体が痒かった。特に、首周りは酷く、どうしようもなかった。

 

しかし、ネットで湯シャンにすると良くなる可能性が!という記事を見て、湯シャンにしたところ痒みが完全に収まった。

 

まさか収まるとは思ってもいなかったし、髪もまとめやすく割と気に入っている。(整髪料を使えないのは痛いが)

 

また、パンツをふんどしに変えた。恐ろしいほど過ごしやすい。良くなっている気配はないが、日常が素晴らしく過ごしやすい。

 

この調子で他の部位もよくなってくれればいいのだけれど。

恋愛と依存と無償の愛

今現在私は恋をしている、とても大好きな人がいる。何故好きか、ある程度言語化は出来るが、完璧には説明出来ない、だってただ好きなんだもの。一緒にいた期間は短く、約一か月程度、しかしながらとても濃い一か月で、より相手のことを好きになってしまった。

 

だが、相手に距離を置きたいといわれてしまった、そもそも付き合ってもいなかったが、そういうことになってしまった。曰く、その理由は私にあるのではなく、向こうの気持ちの整理の問題だそうだ。相手の言っていることは非常に理解出来るので何も言えない、でもこの期間は非常に寂しく感じてしまう。そんなことを言われた日には何故恋をしてしまったのか、好きになってしまったのか、と少しばかり後悔をにじませてもしまった。

 

だが、そこで1つ思った、こんな風に苦しくなってしまうのは何故かと、もしや依存になってしまっているのではないかと。どうやらまだ未熟なようで、散々注意していたにもかかわらずそうなってしまったようだ。そして、ふと思ったのが、自分が真剣になれるものがないということだった。以前失恋したとき理解したことは趣味を増やすべきだ、ということだった。日常で恋愛以外の楽しみを多く作るべきだと、だが今気が付いたのは、楽しいという感覚程度では「恋愛」には到底勝てないということだ。就職すればそっちが大きなウェイトを占めるのだろうけれど、それまではどうしようもない、とくすぶるわけにもいかない。何か真剣になれるものを探したいと思う。

 

そんなことを考えているとき、こんな記事を見た。

 

for-happy-life.hatenablog.com

 

なるほど、と思ってしまった、今まで何を持って依存とするか、その境界線を考えていたが、この記事を見て何となく理解した気がする。そして問題は、つまるとこ私は恋愛並みに真剣になって依存できるところがなかったのだ!と。それが結果として恋愛への過度な依存に繋がってしまっていたのだと。

 

だが、問題はそれだけではなかった、私は今、何故か苦しいのだ。これは依存先が1つに絞られていて、そこが折れそうだからなのか?、どうやらそれだけではないような気がした。

 

それは愛の形に問題があるのではないかと。別に付き合っているわけではないが、相手のことは非常に、とても大好きである。ただ抱きしめているだけでとても幸せな気持ちになってしまう。それどころかただ声を聴くだけで嬉しくなってしまう。

 

にもかかわらず、私は付き合うという「一種の相互承認的形態」を無意識に相手に要求してしまっていたのだ、傷が治っていないにもかかわらず。結局相手に期待を、要求を無意識にしていたからこそ、そうなってしまったのだ。

 

じゃあ、どんな愛を目指せばいいのか、そう考えたとき、無償の愛、という言葉がふと出てきた。何故この言葉が浮かんだかはわからない。そしてこんな記事が出てきた。

 

gerge0725.hatenablog.com

 

これが正しい形か、っていうのはわからない、でも一つ言えるのは別に付き合わなくてもいいじゃないか、ということだ。だって、一緒にいるだけで、姿を見ることが出来るだけで、声を聴くだけで、十分幸せだもの。私は幸運にもそういうものを与えられている。

 

今、この期間に少しでも苦しいのは、無償の愛になりきっていないからだ。そんな気がした、しかしながらこれの実践は非常に難しいかもしれない。そもそも人は特段「愛し方」、つまり「愛するという技術的な方法」を必ずしも学ばない。何となく、自分の感覚で行ってしまう。だけども、そんな簡単なことではないことはわかり切っている。

 

今の私は、「恋愛に並みに真剣になれること」、そして「自分にとっての愛の形とその方法論」の2つを追及した方がいいようだ。

 

(ある意味こういう形でこれらに気が付けたことは幸運であった、そしてやっぱり会いたいなとか思うのであった。)