ただの学生の日記

ただの日記です。思ったことや、考えたことを書いていきます。

恋愛において引きずるから次に行けないとは

一度目の恋愛、二度目の恋愛、ここには大きく差がある。但し、ここでいう恋愛とは正式にお付き合いをし、比較的長期的関係を保てた場合のみを示す。

 

まず、一度目の恋愛の最大の特徴、それは全てが初めてだ、という点に尽きる。初めてのサンプルなわけで、全く勝手もわからない中、お互いに様々な模索をしてゆく。また、恋愛における恋人関係というのは、最も他人のことを知ることが出来る関係性であり、それまで居た親友や家族より、場合によっては深い関係にもなる。

 

そして、この一度目の恋愛を体験した後、不幸にも次の恋愛をしなくてはならないとき、その体験が大きな足枷となることがある。そう、引きずってしまうことによる悪影響が発生する。

 

全ての初めてであり、今までで最も深い関係になった相手を失ったときの悲しみは計り知れない、まして奪われてしまったとき、その対象群に対する恨みは想像しがたい。だが、そこでずっと悲しみ続けてたところで一体何を得ることが出来ようか?相手にその心情を見透かされ、運悪ければ、体よく利用されるだけである。きっとその瞬間は満たされるのかもしれないが、そいつはただの屑である(ああ、恋愛異常とは恐ろしい)。

 

確かに心では中々きついものがある、しかし、そこから脱出出来ることは出来るのだ。但し、その過程を一度目の恋愛と混同してはいけない。

 

残念ながら、やはり初回というものは特別である。今まで真っ白だった自分が、真っ白だった相手を染めて染められる。だが、二度目は色が残ってしまっている。

 

日常で少し歩けば思い出がたくさん甦る、あれほど自身を理解してくれる人はもう二度と表れない思い、将来を悲観し、絶望に伏す。そして昔のことを思い出し、空想の中に日常を見出す。そして引きずっている、と言うのだ。

 

二度目の恋愛は、一度目と違い、その色が残っている状態から始まってしまうのが常なのだ。だからどうしても比較したり、思い出したりしてしまうだろう。

 

もちろん、時の経過は素晴らしいもので、その色は段々と薄くなっていく、でも真っ新になるなんてこと、無いのだよ。

 

もうその色を消すためには、新しい色で重ねるしかないのだ。常に薄くなってゆく色に、常に新しい色を継ぎ足し重ねていく、これしか方法はないのだ。

 

きっと始めのうちは色が残っているから色々思うことがあるだろう。比較してしまったり、思い出したり、でもそれは少しずつ減ってゆくものなのだ。

 

そんなもう染まりきって薄くもならないし、色も重ねられない、というならば、まずは同じ密度と期間で塗っていくことを許容してほしい。きっと染まるからだ。

 

それは悲しいことに思えるかもしれない、でも恋愛に限らず、人間はそうして生きていくのだ。

適正な人間関係の構築

日常で幸福度を充実させるためにどの程度の人間関係を築けばよいか、大学生の私が自分的に思うようにまとめる。

 

1.複数のコミュニティに所属すること、人間は所属欲求があり、そこに安心感を得る。部活、バイト、何でもいいのでとにかく所属すること。

 

2.気心知れる友人を多く作ること、この友人とは自分が素直になれる、そして相手も素直に、かつ対等な関係であるという点だ。

 

3.恋人(正確には愛情を注げ、かつ愛情を注いでくれる人)を見つけること。

 

4.注意、3に関しそのような関係は依存的になる、そうならないように深く注意すべきである。つまり、友人やそれ以外の人間関係を大切にし、過度な干渉をせず、自分自身を見つめながら自分の心に耳を傾け、その欲求を考えるべきなのだ。もし、感覚的に不可能ならば具体的に接触時間や日数を把握し管理しろ。

略奪愛における自己保身

略奪愛、というわけではないのだが、それに近いものが身近で起きてしまった。

 

私自身男子校出身で、大学でもわりと穏やかな人たちに囲まれていたのでリアルタイムでそういう事態を見るということは今までなかった。正直そこそこに衝撃である。

 

別に私はそういうものが悪い、とか良い、何てことは思っていない、そもそも三角関係だろうと、二者の関係が二つあるというわけで、その二つは別々と考えているからだ。

 

そんなことより何よりも見苦しいのは、奪った(実際に起こっているのは奪ったというわけではないのだが)にもかかわらず、奪われた相手のこと気遣うような素振りをする当事者である。

 

はっきり言おう、本当に気遣ってるのならそんなこと(略奪)はしないし、口から出る労りのような言葉たちは所詮自己の体裁を守るために出てくる極めて都合のいい出任せなのだ。少しばかりある罪悪感等を軽減するために吐き出される言葉に過ぎない。

 

組織内ではあまり良いとは思われない、だからそういう言葉を吐く、挙句相手が気がかりで心から幸せとは言えない、などとのたまう。一体どこまでが本心なのだろうか?

 

こういう事態を見ると、必ずも恋愛が幸福に繋がるとも言えないし、またそれを以て不幸になることもあるかもしれない、ということを非常に感じる。

 

もうそういうことをしたんだったら、堂々としてろよ、とそして思う。

 

「頑張る」という言葉は好きじゃない

人間の思考は言葉をベースに行われている。だからこそ、英語、日本語、中国語、といったように異なる言語を扱う場合、その考え方や話す主体の感覚も大きく変わってくる。

 

そしてもちろん、日本語を使う人の中でも、日常で使う言葉の違いによって、大きく捉え方や発想など様々なものが変わるだろう。

 

最近言葉を選んで使うようになった(社会的文脈において正しいものを選んでいるわけではない)私が好きじゃない言葉がある。それは「頑張る」という言葉だ。

 

そもそも頑張るとは、goo国語辞書によれば

 

困難にめげないで我慢してやり抜く。「一致団結して―・る」

自分の考え・意志をどこまでも通そうとする。我 (が) を張る。「―・って自説を譲らない」

ある場所を占めて動かないでいる。「入り口に警備員が―・っているので入れない」

 

dictionary.goo.ne.jp

 

と、言う意味らしい。そして少なくとも私の周りでは多くの人が

 

「 困難にめげないで我慢してやり抜く」という意味で使っているあろう。

 

別に、この言葉を自分に使うのはいいのだ、自分自身に対して使うのは問題ない。しかし、他人に使うのはいささかどうなのだろうか、と最近つくづく思うのである。

 

例えば、会話をしていて帰り際に「この後のバイト頑張って」という言葉を発するということは学生では普通に起こることだと思う。だが、言いかえれば「 困難にめげないで我慢してやり抜く」ことをしてよ!、と言っているようなもの。

 

たかがバイトならばいい、しかしこれが後がない浪人生や就活生だったらどう感じるだろう。本人はその困難に立ち向かっているのにもかかわらず、当事者ではない他人に「 困難にめげないで我慢してやり抜く」ことをしてよ!、と言われるのである。この言葉からプレッシャーを感じ、ただのストレスにしかならない。

 

そして「頑張る」という言葉はこのように「他人によって使われる」からこそ、暴力性が増すのである。結局「頑張る」のは他人によって言葉を投げかけられた「当事者」であって、他人が投げかける「頑張る」には、「部外者」の「期待、支配性」などが含まれており、圧力を生み出すだけでなく、「当事者」の「主体性」すらも奪ってしまう可能性をはらんでいるのだ。

 

この言葉の代わりに私は「祈る」「応援する」「いってらっしゃい」という言葉を使っている。

 

例えば「就活が上手くいくことを祈っているよ」とか「就活応援しているよ」とかである。

 

先ほどの「この後のバイト頑張って」を変換すると、「バイトいってらっしゃい」、である(正直これでも違和感は残るのだが、適切な言葉が浮かばない)。

 

「頑張る」の代替語をもっと探そう。

「期待しない」ということ

私は1つ、特に意識しながら生きていることがある。それは「他人に期待しない」ということである。

 

これはもう常にそうである、例えば恋愛だけでなく、バイトや、それ以外の日常でもだ。

 

実は、期待したにもかかわらず、期待通りにことが運ばないとき、人間にはストレスが大きくかかる。そもそも期待とは人の行動をコントロール出来るという潜在意識があるが、期待というもを取り払うことで、そのストレスを根本から消すことが出来る。

 

しかし、これは意外と難しい、自分だけが面倒なことをしているとき、中々連絡が来ないとき、待ち合わせに大幅に遅れてくるとき、何で他人は!、といった思考をめぐらしがちなのである。大体そのストレスは自己内だけでなく、外部にも発露し、他人に対する攻撃的な態度といったようにに現れる。

 

たが、1つ注意すべきは、期待しない=無関心、という図式は私の場合必ずしも成り立たない。よく「怒られるだけまし、期待してくれいるんだから、そうじゃなくなったらもう無関心でどうでもいいってことだよ」とかしたり顔で言う輩がいるが、それは常に関心が期待といったような相手をコントロール出来るという幻想を含む概念と一致しているからなのである。

 

別に人に期待しなくとも関心を持ち、関わり合うことは出来るだろう、何かあっとき、ただその事実をただの事実として受け止めればいいだけなのだ。