休職から復帰した社会人の日記

ただの日記です。思ったことや、考えたことを書いていきます。

久しぶりの同期会

本当に久しぶりに大学時代の同期達のと飲み会があった。それぞれ社会人になってたり、院の進学が決まったり人それぞれだった。

そして何より感じたのが、例え新社会人と言えど、結局個人ベースによるよね!、というお話だった。

つまり、新社会人、とひとくくりにされようとも、やってることは違うし、会社の待遇、回りの人間、皆それぞれ違うのだ。

今回のメンバーは銀行とITの2業界しか居なかったけれども、本当に会社によるなぁ、としか言えなかった。

そして、結局社会人という概念は、各個人の常識という妄想によって形成される、都合の良い概念だなぁ、とも思うのであった。

ここまで個人によってベースの異なる言葉を社会人という単語に集約するのは恐ろしいとも非常に感じる。結局、社会人という言葉は、他人を都合良く縛り付けるときにしか使われていない、そうとしか思えないのである。

それと同時に、私は今まで働くという言葉、社会人という言葉に強く縛られていたことを身をもって知った。

つまり、働くということ、そして社会人とは、常にしっかり、ちゃんと、していなければならず、ミスをせず、常識的なマナーを身につけ、自分の賃金以上の働きをする、そう、あるべきだ、そう考えていたのである。

だからこそ、私にとってチャレンジは死を意味した。ちゃんと、しっかり出来る道から外れたならば、あるべき人間の形から外れ、もう終わりだというように考えていたのだ。今大学時代のバイトを選んだ理由を考えると、全て出来そうか否か、それしか考えていなかった。

そういう基礎概念が染み付いていたため、会社も穴場を狙った、のだった。

そういうことに気がつき、かつ現実を直視し、社会人の現実を目の当たりにすると、社会人とは意外と緩いということに気が付いた。そらそうだ、つねに100%生きることが出来る人間など、いったいどれだけ居るのだろうか。社会人になって思ったが皆ミスはするし、伝達ミスだって普通にする。

字が汚い、服装がなってない、電話の言葉使いが悪い、と自分のことを棚にあげてのたまう社会人は多い。そして、あげく叱られる内が花という。もし叱られればそんなふうにはならない、捉えて良いならここ数年の新人を除き、80%は叱られていない、ということになるんですが。

今まで色々な欲から逃げてきた、その理由が良くわかった1日でした。